2011年9月29日木曜日

上司か・・・


会社でトラブルが起きた。とりあえずの処理を済ませて、報告書を何本かまとめて、戻ったところだ。気晴らしに買ったばかりのアルバムをかけながらオープンで車を走らせた。

人相手のサービスでは、小さなミスが文字どおり「命取り」になることがある。もちろん、そんなことにならないよう部下を指導することが上司の役目だろう。同時に上司は部下を守ることだ。守るべき部下を守りきることだ。時には、自分の首を差し出しても、つまりそれくらいの覚悟だってことだ。

もし、それができなくなる、そんな気持ちになれない時が来るなら、この会社を去ろうと考えている。きれいごとだといわれるかもしれない、しかしそれは少し違う。もうこれは、ただのやせ我慢なのである。腹の立つこともある。やりきれないこともある。それが限界を超える時もあるだろうからね。

PS.おかげで大切な人とのデートをすっぽかした。それでも心配してくれる。ありがとう。

2011年9月27日火曜日

中年時代



仕事の話をすれば、愚痴っぽくなるのであるなあ。さりとて、趣味の少ない人間ではあるし、話題も少ない、だいたい人と話をするのが苦手な人間がブログを開くなんて大それたことを発想するのが間違いなのである。ま、それは置いといてだ。

車をオープンにするには良い季節になった。仕事帰りの短時間、風を受けて楽しめる。BGMは、買ったばかりの少女時代のアルバムで、年齢にそぐわないことは、あえて認めるけれどね。それでも、楽曲は、平均以上のレベルだし、聴くに値すると思う。

PS.革ジャンの季節が近くなってくる。少しわくわくしている。



2011年9月25日日曜日

憂き世かな


歌川国芳の前期の展示が間もなく終わるので佐川美術館に出かけた。型破りで、サービス精神旺盛なその作風には驚かされるしとても楽しい。観ているだけで、ニコニコと顔がほころんでくる。同時に、少し、うらやましい気分のなるのは、どうしてだろう。



馬を見に行くのはやめて(謎)、びわ湖に足を延ばしたのだけれど、湖上ではレガッタの大会が行われたり、サッカーの試合、水上スキーやバス釣りの環境への影響の是非はともかく、そうやって生きることを楽しんでいる人々を眺めているのは、楽しい。そう感じていられる間は、私の心もまだ、健全なのだろうと思う。多分、歌川国芳が過ごした幕末の世相も、騒然としながらも世を楽しむ人々の勢いがあったのだろうね。それが作品から伝わるのかもしれない。


ここのペッパーポークサンドとウインナコーヒーはお気に入りだ。少し値段が高いけどね。さて、そろそろ混んできたから、カフェを出よう。天気が持ちそうだから、もう少し屋根を開けて走ってみるよ。

PS.併設の吉佐衛門の花器とブルーノマトンのグラフィックのコラボレーション展も見ごたえがあって楽しい。お勧めだよ。

2011年9月24日土曜日

馬を見に行こう


イベントもあって、気がつくとこの三週間ほとんど休みなしで働いていた。久しぶりに休みを取ったけれど、書類を作るのにまとまった時間が欲しくていつものカフェにこもって、気がつけば10時間もパソコンの前に座っている。結局、自宅に戻ってからもパソコンに向かい、夜中を過ぎたので床に就いたものの、頭の中で推敲をしている。それが夢なのか現実なのか区別ができない。脳のテンションが上がったままなのだと思う。再び懲りもせず、深夜(早朝)にパソコンを開いている。

目はさえたままだ。Amazonを物色したあとで記事を投稿することにした。

職場では、上司からも部下からも、「もっと働け」と言われる。無理だと応えれば、「やり方がまずい」と言われるのだから救われない。あれこれ言われるのは、まだしも期待されるからと「前向き」に考えてやり過ごすことにしよう。「過剰適応」とか、そんな言葉がちらつく。世の中の上司や部下は、こうやってあわれな中間管理職を追い込んで行くのだろうね。

しかし、上司や部下は同時に自分をサポートしてくれる存在でもある。そこのところが逆につらいよね。それに応えて「がんばろう」と思ってしまうのだよ。前にも言ったけど、私は自分のために頑張れるほど強くない。誰かのためだと思うから耐えられる。

「いやいや、おまえは役に立ってなんぞいないよ」なんて言われる時がきたら、それは、自分を辞める時なんだろう。それはそれで、もとの自分に戻るだけなんだけどね。意味不明の言葉が並ぶなあ。

PS.Amazonで古いアルバムを大人買いしている。そうだ、北の国へ馬を見に行こう。

2011年9月16日金曜日

あなたに


嘘をついたり、愚痴をこぼしたり、異を唱えたりしたくなければ、人は、黙り込む。それも駄目だというなら、もうどこかに逃げるしかない。それもできなければ、どうするのだろう。最後の手段として、自分そのものを「ない」ものにするのだろうか。

カフェで仕事をしていたら、職場からトラブルの連絡があった。様子を見に行き、待機していると、そのままズルズルと仕事になり、夜明けが近くなった。忙しい最中、そんなことを考えてみたりするのだよ。みんな、大丈夫かい?

PS.安全地帯の古いアルバムをCDで購入した。松井五郎の詞が良いのだよ。

2011年9月3日土曜日

何故なんだろう


誰かが亡くなる、「何故なんだろう」と自分に問いかける。答えがあるわけはないし、たいがい、神様か誰かが決めたのだろうと自分を納得させるのだけど、うまくいかない。答えがないままだから、亡くなったことを実感ができないし、哀しいとも思えないのかもしれない。

「何故なんだろう」と問いかけられているようで、告別の場で残された家族の顔を合わせるはつらい。立場が逆でも、当たり前につらい。それは、哀しいということとは少し違うような気がするんだよ。

だから、誰かが亡くなると、いつも、こう呼び掛ける。「じゃあ、またね」「元気でね」、多分しばらく会えなくなる友達のように、そして、問いかける。「元気でいますか」、無沙汰をわびるような気持ちでね。
誰もが私のように考えているわけではないだろう、むしろ、涙で想いを表わせるのは、良いことなのだと思う。

PS.さて最近聴くのが「YOU 'RE ONLY LONELY