2013年6月10日月曜日

美の響演


午前中、いつものカフェで読書して、午後、パートナーが中央公会堂で研修だったので、私は、国立国際美術館に足を伸ばして、関西の美術館のコレクションを集めた「美の響演」展を観た。印象派以降から近現代の前衛アートまで、とても楽しめた。


待ち合わせの時間まで美術館近くのカフェで読書。残念なことにコーヒーが癖が強くて馴染めずに気分が悪くなった。体調もよくなかったのだと思う。店の責任ばかりではないだろう。中央公会堂まで京阪電車で二駅。乗客もほとんどいなくて、新しいホーム、静かな車両。ホッとした。

P.S.ピカソの評価や功績を素人の私がどうこう言えないけど、この時代の色のバランス、デッサン、すごいなと思う。

2013年6月8日土曜日

検索と思索


小説以外のビジネス関係の本を読み始めた。今日の本、邦題だけ読むと、センスを疑うけれど、インターネットが、文化、ライフスタイル、読書、最終的には脳に与える影響について真面目にかかれた本。ネタ元はコラムだけれど、脳科学、心理学などの調査や知見をベースにしたきちんとした内容だ。

Googleなどで、欲しい情報をすぐ手に入れられる環境のなかで、情報は膨大な量で錯綜し、読み手は、注意散漫になる。おまけに、あなたの欲しい情報はこれですか、と余計なアドバイスまでしてくれる。じっくり考える沈黙の時間を奪った。といったお話。

「検索」が「思索」を奪った。脳は、使われ方によって、変化(成長)することは、今では常識になっているけれど、だからこそ、これから、普及が進むデジタル機器の使い方と、どう折り合いをつけるのか、考えさせられる。

教室に情報端末を持ち込むと言う話もある。今後、デジタルリテラシが必要なことは理解できるし、デジタル機器が脳のある部分を活性化することも事実だろうけれど、じっくり考えたり、学んだり、新たな気づきを促すことには向かないよね。

テレビゲームもよいけど、子どもたちには、活字の本も読んで欲しい。

2013年6月6日木曜日

研修に出掛けた


エバーノートと言うデータ管理ツールの研修に出掛けた。電車に乗って街中に出るのは、久しぶりだ。会場は、最寄り駅が仕事で頻繁に通っていた場所なので、出掛けるのは不安だったけれど、薬の力も借りて、リハビリを兼ねて行くことにした。

費用対効果、機能とセキュリティ、うちの会社に導入するのはむずかしそうだ。内容は、期待以上でも以下でもなかったと言うところかな。参考になる話も聴けたし、リハビリのハードルをひとつ越えられたような気がする。ハードルを越えた翌日は、体調がよくないことも多いので、無理をしないようにしよう。

2013年6月2日日曜日

日本海へ行こう


しばらく、引きこもり生活が続いた。調子がよいと判断して、出掛けたら数日、動けなくなったりするので、バランスをとるのが難しい。しんどいからといって、出掛けないのも、好ましいことではないからね。自分の体が思う通りにならないというのは、もどかしい。

京都から丹波に抜ける自動車道の一部が通したので、出掛けた。頭痛はあったし、体もだるいけれど、薬の力を借りて出掛けることにした。体調を崩してから、運転は、パートナーに任せている。申し訳ない気持ちと羨ましい気持ちが半々。自分で愛車コペンを転がしたい。



ついでだから、天橋立まで行こうと言うことになって、日本海を眺めた。ついでだから、モーターボートに乗ろうと言うことになって、クルーズを楽しんだ。ついでだから、文殊様でみくじをひいた。あとは団子を食べて、地ビールを買った。


「大吉」だった。神様の方でもなにか、ついでがあったのだろう。運が向いてきたと考えるべきか、運を使い果たしたと考えるべきか。普通は、前向きに考えるところだろうから、うれしくて踊った。嘘だけど。


ついでだから、「船屋」建築のある伊根まで足を伸ばした。暮れなずむ入り江の穏やかな波、道のはたでぼんやり座り込んでいる年より、旅人にとっては、情緒に溢れる風景だ。

「また行こうね。」と約束してドライブが終わりましたとさ。 楽しかった。少し自信がついたので、また、出掛けたいと思う。

「ボクがテスト用紙だったころ」

「ボクがテスト用紙だったころ」

気がつくとボクは、教室の机の上にいたんだ。カリカリと鉛筆の芯がボクの体を滑る音を聞いた。そして、そのとき初めて見たその子の少し真剣な眼差しにドキドキした。ボクの額の辺りには、さくら台中学校中間テストというタイトルがあって、その下にはには、設問1「次の文章の数式の空白をうめなさい」と続いているけれど、その子は、その子は少ししかめっ面でため息までついて、ボクのせいで悩んでいるようだった。「ボクにもわからないよ」と小声で伝えたけど、聞こえなかったみたいだ。そうボクは、テスト用紙だ。

「あっ」というその子の声がして、ボクは初めて、自分の体が宙に浮いていることに気がついた。そのままボクは、開け放つ窓に吸い込まれてしまい、つまり運動場に飛び出してしまった。気まぐれな風は、「ごめん、ごめん」なんて言いながら、ちっとも謝っている様子ではなくて、なにか言い返してろうと思っているうち、ボクの体を巻き上げたのは、別の風で、「どうしたの」なんて逆に聞かれる始末だ。

その子の驚いたような、怒ったような顔をボクは、一瞬視界にとらえたけど、自分の力では、教室に戻ることもできなかった。ボクは、一枚の紙切れだったからね。仕方なくボクは、自分でも望んでいない旅に出ることになった。だけど驚いたことに、ただひとつだけ素敵なことが起きたんだ。ボクは、自分で自分を書き換えることができるようになった。多分、学校の先生に、「ルールを守れ」なんて言われずにすむようになったからだと自分では、思う。

試しに書いてみた。設問1「ボクは、どこへ行くのですか」、町外れの楠のじい様は、長い間、生まれてからずっと、そこにいるだけなので、「どこかに行く」ことの意味さえわからない。設問2「ボクの大切なものはなんですか」、ひばりの父さんは、生まれたばかりの雛を守るのに忙しいようで、答えてくれない。設問3「ボクは、誰ですか」、小さな雲は、大きな入道雲になり、雷鳴と雨の激しさのなかで「生まれてから一時も同じかたち同じ自分でいたことがない」と嘆いていた。

仕方なくボクは、気ままな風たちや楠のじい様、ひばりの父さんや雲たちと話したことを物語にして、自分に書いて行くことにした。他にも星の瞬くわけや落葉の旅や、ボクの心を揺らすお話を書き加えていった。

そしてある日、自分と同じように、空を舞うものたちに囲まれていることにボクは、気がついた。例えば、とても強い波に洗われたような子どもの写真、角が少し焼け焦げた手紙、見えないけれど伝えきれなかった「ありがとう」の声、カラフルな像の絵、そういったものが、ひとつひとつの物語が、はじめは降り始めた雨粒のように、しだいに波のような流れになって、しまいには大きな渦になり、ボクは、そのまま渦のなかに引き込まれてしまった。

気がつくとボクは、教室の机の上にいるとだと思った。きっと夢でも見たんだろうと思った。だけどボクは、自分の体のなかにたくさんの物語を詰め込んだ、少しだけ重さを増した一冊の本になって、小さな図書館の書棚にいたんだ。もちろんすごく少し驚いた。そしてある日、ボクのページが開かれて、その時、ボクの目の前にあったのは、ボクがよく知っている眼差し、少し大人びた光に満ちたその子の眼差しだった。そして、ボクはやっぱり、ドキドキしたんだ。ボクは聞いてみた。「君はどんな物語が好き」、その子にはボクの声は聞こえないらしい。でも、その代わりとびきりの笑顔で次のページをめくって、ボクの物語を静かに読み続けた。

2013年5月28日火曜日

光媒の花


「光媒の花」には、切ない物語が、登場人物が少しずつ繋がりながらオムニバス風に綴られている。物語の登場人物は、むしろ不器用で、そのくせ愛しい。

先日、天満橋の小さなマンションで、ミイラ化した親子が発見された。「いっぱい食べさせてあげられなくてごめんね」とメモがあったそうだ。冷蔵庫は空で、残っていたのは食塩だけ、生活に困っていたのだと思う。

母親には、子を死なせた責任がある。しかし、死因が特定できないほど、長い間、誰にも気がつかれないままで亡くなってた。誰とも繋がらないまま、誰にも頼れないまま生活していたんだね。どれほど追い詰められていたのか。

生きていれば、親子でもっと素敵な物語を作ることができたのではないか、メモに溢れる母親の気持ちが、そう思わせる。

なぜ、学ぶことが大切か、もうひとつ、理由がある。生きる力を身に付けること、そして、つまり、しあわせになる力を身に付けることなんだ。母親には、それが、ほんの少し足りなかった。回りも伝えることができなかった。ほんの少しの繋がればあれば、と思う。

2013年5月27日月曜日

正義と希望


川上未映子の「ヘブン」という小説を読んだ。「正義」について考えた。絶対的な正義というものを提示することは、難しい。国や地域、宗教や文化、属する集団、年齢や経験、おそらくいろいろな要素がからむと、同じできごとにでも、正しい、正しくないの判断は変わることになるからね。「テロ」の正義と非正義、少年犯罪のプライバシー保護、死刑制度、銃の所有、例をあげれば、キリがない。ネットの世界では「人殺し」は容認され、昨日までの正義が容易く変わる。

子どもたちに伝えたい。「正義」とはなにか自分で考えるために、勉強が大切だし、物事の筋道をきちんと追うことができたり、論理的な判断をするために大切なことを知り、心を揺さぶるような話を理解したり、その意味では学校はとても役に立つ。同時に矛盾するようだけれど、学ぶ場所は学校だけではないということも含めて学んでほしい。「正しい」ことが本当に正しいのか、見極める力を身に付けてほしい。

何のために勉強するのか、「正義の味方」になるためだよ、と伝えたい。心が折れそうなときでも、ちゃんと立っていられるように、学んでほしい。子どもたちがちゃんと学べるようにすることが大人の役割だ。そことは、憲法にきちんとかいてある。

何度でもいう。子どもたちは、常に、この国の、この世界の希望なんだからね。